に抗争と平和の時代を繰り返した。その抗争は宗教戦争の性格を帯び、ローマ帝国がキリスト教を公認すると、ササン朝はそれまで保護していたキリスト教徒を迫害し、すでにローマ帝国と結んでキリスト教を採用していたアルメニアに対しては、ゾロアスター教への改宗を要求した。しかしビザンティン帝国に敗れると信仰の自由を承認した。他方、北魏(ほくぎ)時代の中国には前後11回にわたって使節を派遣している。カバード2世以後は、4年間に8人の皇帝や女帝が即位するほどの混乱期となり、この時代に、アラブ人イスラム教徒の侵入を受けた。ヤズドガルド3世は642年ネハーバンドの戦いに敗れ、イラン全土がイスラム教従によって征服されていった。ヤズドガルド3世はホラサーンのメルブめざし亡命したが、651年に暗殺された。